2025年9月29日月曜日

富士川の川沿いを一緒に走ろう

秋のよく晴れた日に、僕はいくつかの運動をした。

昼寝を少しして、こどもが公文を終えるまでジムへ行く。丁寧に関節の動きを確認して、筋肉を引き伸ばして、身体の奥のスイッチを入れるだけじゃなく、またひとつ前に進んだことを確認し、またひとつ課題が浮かび上がってきたのを感じた。

公文を終えたこどもと待ち合わせて、公園に集まった。野球をするためだ。なぜ野球なのかといえば、先日ナイターゲームを観に行ったせいだろう。あの光の下で見た白球の軌跡が、まだ頭の中に残っているのだ。家の中でキャッチボールをしていたのも、その延長にすぎない。今日はただ、外で思い切り投げたかったんだろう。

野球をして、バレーボールをして、リレーまでやった。息子は最近、石川祐希の本を読んでいたし、家族でたまの夜更かしに世界陸上を観たりしていたから、そういう流れになるのも自然だった。こどもたちの興味はどこからやって来て、どこへ向かうのか、いつも不思議に思う。

夕方になって家に戻ると、こどもたちは机に向かい、僕はビモロシューズを履いて走りに出た。六キロほど。歩道がどこにあって、どこにないのかを確かめながら走る。息子が今度は一緒に走りたいって言いだしたんだ。

3年前のことを思い出す。小四になったら佐鳴湖を一周一緒に走るか。って言っていたけど、その約束はもう果たせない。僕たちは浜松から引っ越してきたんだ。代わりに、こんど富士川の川沿いを一緒に走ろう。

川面に映る夕方の光は、少し冷たく、そしてどこか懐かしい匂いがした。

2025年9月23日火曜日

秋分の日の朝に

  今日は秋分の日で休み。

朝のうちに紹介状を三通仕上げる。むしろ朝の机は仕事がはかどるから気は重くない。ペンを置いたとき、休みの一日がようやく始まった気がした。

行けるときには時間をみつけてジムに通っている。けれども、ジムは火曜日が休みなんだ。せっかくの休日だがジムに行けない。だから今日は早朝に西公園を走ることにした。

少し空気は冷えてきはじめたようだ。思いの外ランナーやウォーカーが多い。犬のリードが朝の光に揺れて、静かなはずの公園がそれぞれのリズムで動いていた。

5キロ走って汗を拭い、息が整うと、不思議と体が軽くなっていた。走った後のわずかな高揚感が、今日これからの移動を少し楽しみにさせてくれる。

向かう先は山梨。新聞に載っていた釣り堀ランキングにのっていたので、こどもとここに行こうって約束していたんだ。渓流をそのまま活かしたような釣り堀らしい。水音を聞きながら糸を垂らす時間を想像するだけで、少しわくわくする。

しかし、なんで釣り堀かというと、この前の海釣りでサビキを使い、文字通り大漁(大量)に釣れた。バケツいっぱいの魚を持ち帰って、からあげにして食卓に並べたのだが、どこかサビキの匂いが残っていて、みんな少し顔を見合わせた。そんな記憶が残っているからこそ、今日は渓流の澄んだ水で育った魚を味わってみるのだ。

2025年9月18日木曜日

一歩一歩を修正する価値

 走るよりもジムに通う日が多くなった。

それは、筋肉を盛るためではない。初動負荷のマシンに身体をゆだね、関節や筋肉の動きをひとつずつ整えるためだ。


けれど、そのぶん「走る時間がない」という感覚は消えない。

だから僕は、ビモロのシューズを手に入れた。


ビモロは、初動負荷理論を体現するために設計された靴だ。

つま先からかかとにかけて自然なローリングが生まれ、着地や蹴り出しがスムーズにつながっていく。足を入れるだけで、動きそのものを修正してくれるような感覚がある。


大阪万博の日、その靴で一万四千歩ほど歩いた。

一歩ごとに、知らぬあいだにフォームが矯正されていったのだろうか。

万博の熱気と人波のなかで、自分の歩きが少しでも変わったことを祈る。

2025年9月15日月曜日

土曜日の2部練

土曜日は初めて初動負荷ジムで二部練をした。午前中に三時間、夕方に一時間。

午前の三時間は思ったよりもあっという間だった。いつものように一つ一つの動きを繰り返しているうちに、時間の感覚が少し曖昧になっていく。機械の動きに合わせて体を預けていると、自分がそこにいるのか、あるいは機械に動かされているだけなのか、わからなくなる瞬間がある。

そして夕飯前に、もう一度ジムへ。今度は1時間。

同じ動きをしているはずなのに、午前にはなかった発見がある。

「ここが少しスムーズに動く」「この角度なら痛みが出ない」――毎回、新しい気づきが身体の中に隠されている。

二部練というと学生時代の部活動以来だけれど、初動負荷トレーニングだと全然違う。

身体に負担をかけすぎずに、自分の動き方を知っていく作業。

それは、走り出すための静かな準備運動だ。

2025年9月3日水曜日

走らないことに慣れる才能はあるのに、走り始めるには少しの覚悟がいる

 年末に河口湖を走ることになっている。10キロのレースだ。友達も一緒に走るから、あまりみっともない姿は見せられない。そういう事情で、実は10月の大井川マラソン(10㎞)にエントリーしてある。つまり、その前哨戦というやつだ。


でも、ここ二ヶ月ほど僕は走っていない。理由を探せばいくつも出てくる。足の裏の痛みもそうだし、夏の暑さに言い訳を見つけたこともそうだ。でも本当のところは、自分が走らないことに慣れてしまったのだと思う。人は意外に、忘れることの達人だ。


その間、僕は初動負荷トレーニングに夢中になっていた。関節の動き、フォームの改善。機械の上で自分の体をひとつひとつ分解して組み立て直すような時間。ジムで機械に向かって体を動かしながら、「これで僕の走りはきっと良くなる」と自分に言い聞かせていた。でも当然、それは「走る」ことそのものではない。心肺は相変わらず沈黙したままだし、身体はランナーとしての記憶を封印したままだ。


走るということは、走ることでしか思い出せない。足が地面を叩くリズム、肺が少しずつ苦しくなる感じ、汗が背中を流れる温度。それを体に刻みなおさないといけない。忘れられたことは、自分の脚で拾いに行くしかないのだ。


今日は半日診療で仕事が終わる。午後になったら、久しぶりに走ってみようと思う。走り出す瞬間はきっと、少し気まずい。友達の家に長いあいだ顔を出さなかったあと、ドアベルを押すような感覚だ。けれど、走らなければ始まらない。


走ることは、言い訳の数よりも単純で、機械よりも正直で、そして忘れてしまうには惜しいものだから。

坂を登るたびに時間がずれる

東京駅から秋葉原まで、リュックを背負ったまま走った。 そこからさらに四谷のホテルまで走ることにした。距離にして八キロほどだ。目的地は決まっていたけれど、急いでいたわけではない。ただ足を前に出し続けていれば、いつかは着く。走るという行為は、だいたいいつもそういうものだ。 途中、市谷...