2025年7月9日水曜日

試行錯誤

ぼくは今、174センチで70キロある。BMIで言えば23.1。まあ、数字としてはそれほど悪くない。けれど、悪くないということと、ちょうどいいということの間には、いつだって見えない谷間がある。

減らしてみようと思った。筋肉はそのままで、脂肪だけをうまく手放して。目安は65キロ。BMIにして21.4。その数値に特別な意味があるわけじゃないけれど、自分の体が少し軽くなれば、景色の見え方も変わる気がした。

僕はよく、走ることについて考える。

「痛みは避けられないけれど、苦しみは選べる」となにかに書いてあったように、走るというのは選び続ける行為だと思う。走るか、立ち止まるか、やめるか。それでも僕は、あの寒い空気のなかを黙って走りたくなる。

12月、河口湖で10キロのマラソンがある。風は冷たく、空気は澄んでいて、遠くで鳥が一羽だけ鳴いているような朝が似合う場所だ。

ぼくはそこを走るつもりだ。走りながら、いくつかのことを思い出すかもしれないし、何も思い出さないかもしれない。ただ、走る。

そこに向けて、日々の食事をほんの少し整えて、夜更かしをやめて、何も特別じゃない生活のなかに、ちょっとした軌道修正を加えていく。

体が軽くなれば、心もほんの少し、ふわっと浮くかもしれない。それだけのこと。つまり、ぼくはもう一度、自分の身体と静かに対話しながら、生き方のチューニングをしようとしているのかもしれない。

2025年6月29日日曜日

はじめてみた

 昨日、初動負荷トレーニングのジムに行ってきた。初動負荷という言葉は、なんとなく聞き慣れない響きを持っているけれど、実際に動いてみると、不思議と身体が納得していた。まるで、長く放っておかれた引き出しを静かに開けていくような感覚だ。

重いバーベルを持ち上げたり、筋肉をパンプアップさせたりするようなトレーニングとは違う。どちらかといえば、自分の身体に対して「ごめん、今まで気づいてあげられなかったね」と謝るような、そんな静かな時間だった。

昨日は4台のマシンを使った。

Scapula(肩甲骨)

肩甲骨が自分の意志で動き始めたような不思議な感覚。埋もれていた羽根が、ふと、思い出したように動く。思いがけず深く呼吸できたとき、人は少し安心する。


Clavicle(鎖骨)

鎖骨なんて、日常では意識しない。でもその細い骨の動きひとつで、胸がひらく。人間の身体って、ほんとうはもっと開かれていてよかったんだと思った。


Hip joint(股関節)

脚を前に出すとき、股関節の前側がふわっと開く。「あ、こんなふうに歩けばよかったんだ」と思う。歩くことって、ほんとうはもっと優しい行為なのかもしれない。


Pelvis(骨盤)

まるで本棚のゆがみを直すように、骨盤が正されていく。このマシンに揺られながら、ふと、自分の中心って、どこにあったんだっけと思う。


筋肉ではなく、関節に語りかけるようなこのトレーニングは、どこかリズムをもった“詩的な運動”だった。無言のまま、でも確かに自分の身体と対話をしている。小さな違和感や、忘れていた感覚と再会するような。

そして今日、入会金を握りしめて、またその扉を開けにいく。肩甲骨と骨盤と、もう少し仲良くなれそうな気がしている。

2025年6月28日土曜日

とまらない

右足のMTP関節が痛くなって、ずいぶん休んでしまった。

痛みがどうとかではなく、ただ「走れない」という事実があって、そこに理由はあとから貼りついてきただけのように思う。

休んでいたあいだ、いろんな音がよく聴こえるようになった。

車のタイヤがアスファルトをなでる音とか、朝の空気の隙間にまぎれこんでくる鳥の声とか、あるいは自分の中で何かが擦れているような気配とか。

人は休むと、走っていたときよりも静かに孤独になる。でも、それが必ずしも悪いことじゃないと僕は思う。

まだ少し痛い。

でも、痛みはもう「主語」ではなくて、「形容詞」くらいの存在になってきた。

そういうときにやれることを探す。

走れないなら、関節をひらく。

伸びることはできる。呼吸することもできる。

今日から、関節可動域を広げる初動負荷トレーニングをはじめることにした。

それは派手でも刺激的でもないし、だれかに話したくなるような類の話ではないかもしれない。

でも、自分の中で「とまらない」ための方法として、これは悪くない。

僕はよく考える。

何かをやめることと、何かを終わらせないことは、まったく別の話だ。

たとえケガをしていたとしても、僕のなかで走ることはまだ終わっていない。

おわらせないかぎり、ぼくはとまらない。

2025年6月16日月曜日

小雨ラン、金曜のうそつき

梅雨だと、どうしても外を走るハードルが上がる。天気予報とにらめっこして、降らない時間を見つけては「ここだ」と決め打ちする。

金曜日も、そんな賭けだった。

「8時から雨がやみます」

雨雲レーダーがそう言っていたから、信じた。いや、信じたふりをして、走りたかっただけかもしれない。

シューズの紐を結び、外へでて空を見上げると、まだ雨が降っていた。

ずっと小雨だった。

止みそうで止まない、なんとも煮え切らない雨。まるで誰かの返事を待っているときのような、落ち着かない気持ちになる。

意外と嫌じゃなかった。

雨粒が頬に当たるたび、眠っていた感覚が目を覚ます。

湿った空気が肺に入り、からだの奥が静かに動き出す。

ぬれたアスファルトの上、ペースは上がらないけど、気持ちは落ちてこなかった。

「走れないかもしれない」と思っていた日が、こうしてちゃんと“走った日”になる。

事故なく帰ってこれた、それだけで十分だと思えた金曜の夜だった。


【金曜日のランニング】7.31km

【前回大会からの総練習距離】83.28km

★6月の総ランニング 19.10㎞

★5月の総ランニング 58.2㎞

2025年6月7日土曜日

境界線

 ごはんの上に、卵の黄身がすっと溶けていくのを見ていると、自分の輪郭も少しずつ溶けていく気がした。卵かけごはんを食べたのは、診療がすべて終わって、時計の針が少しだるそうに夜を指し示している頃だった。食べたというより、飲み込んだ、という方が近いかもしれない。流れるように。

そのあと、リウマチについての解説動画を一本つくった。声のトーンに気をつけて、言葉を選びながら、必要なことだけを残した。いくつかの言葉は手のひらで転がすようにして捨てた。言葉を選ぶけれど、どれだけ削っても、余計な語尾が残ってしまう。僕の語彙には、無駄な感情がよく紛れ込む。

そして僕は、走りに出た。トレイルラン。そう、岩本山のトレイルランだ。自分のなかではちょっと格好をつけた呼び名だけれど、口に出さなければ誰にもばれない。トレイルランという言葉は、どこか自分には似合わない気がして、それでも使ってみたくなる。ロードを走りながら、岩本山の今まで入ったことのない入口へ足を向けた。暗かった。想像以上に。

月の光が、思っていたより明るかったのが、逆に不安だった。明るすぎる場所では、見えてはいけないものが浮かび上がってしまう。足元は見えない。目に映るのは、輪郭を失った木々と、自分の呼吸だけだった。

道は、どんどん細くなっていく。その分、僕の不安も濃くなっていった。くまが出たらどうしよう。滑って転んで、誰にも見つけてもらえなかったらどうしよう。心のなかで声がいくつも重なって、どれが本物の自分の声かわからなくなっていく。

ガサガサっという音がした。風だったのか、それとも小動物の足音だったのか。あるいは、自分の中の「引き返したい」が音になって現れただけかもしれない。

僕は、撤退した。それは臆病でも、敗北でもなかった。ただの、撤退だった。

それを恐怖と呼ぶのか、判断と呼ぶのか、いまはまだ決められない。ただ、月だけが、何も責めずに、同じ光を投げかけていた。ときどき、人は月の光に照らされて、自分の境界線を知る。

【昨日のランニング】4.67km

【前回大会からの総練習距離】75.97km

★6月の総ランニング 11.79㎞

★5月の総ランニング 58.2㎞

2025年6月2日月曜日

東日本国際マラソン10㎞回顧録05

 序盤はとりあえず、レースに慣れようと慎重に走った。なんとなく、これくらいの感じかなと、Apple Watchをちらちら見ながら、進む。ペースは悪くない。けれど良すぎてもいけない。マラソンというのは不思議な競技で、前半が調子良すぎると後半が地獄になる。そういう意味では、「ちょっと物足りない」くらいが、ちょうどいい。

 風はやや冷たく、でも頬を刺すほどではなかった。気温も湿度も、走るには申し分ない。身体は軽い。ただ、心のどこかで、これがずっと続くわけじゃないことも、ちゃんとわかっていた。8㎞の壁、後半の向かい風、脚のどこかに忍び寄る攣りの予感──それらのすべてが、まだ遠くのほうで身構えている。

 給水所が見えてきた。でも、僕はスルーした。

 うまく給水できた記憶なんて、これまで一度もない。手に取った紙コップの水を半分こぼし、残りもほとんど口に入らず、むせる──そんなシーンしか思い浮かばなかった。それに、10kmくらいなら、飲まなくてもきっとどうにかなる。

 でも、水が天井から霧のように吹きつけられているトンネルは、通ってみた。あれは良かった。冷たすぎず、ちょうどよくて、身体の表面がふっと軽くなる気がした。心拍が落ち着くというより、少しだけ気持ちがほぐれる。そういう場所だった。

 走りながら、周囲の人たちの呼吸のリズムや、靴音に耳を澄ませていた。同じようなペースで走っている人たちが、なんとなくグループのようになって、ひとつの流れをつくっている。誰かが少し加速すれば、それにつられて集団全体がじわっと前に引っ張られる。まるで、見えないゴムでつながっているみたいだった。他人との勝負じゃないのに、勝手にライバル心が湧いてくる。マラソンには、そういう場面がある。

 だけど、1周目を終える頃には、すでにその背中は遠ざかっていた。差は、広がっていた。脚が、ではなく、気持ちがついていっていなかったのかもしれない。

 たしかに今回は準備不足だった。走り込みも足りなかったし、食事だって短い期間ですら、乱れることが多かった。でも、自分は学生時代、何百回も何千回も、グラウンドを走ってきた。ボールを追って、雨の日も、真夏の午後も、走ってきた。あの時の走りが、身体のどこかに、まだ残っているはずだ。「こんなところで終われるかよ」と、心のどこかで叫んだ。

 だから、2周目。

 僕は少しペースを上げた。脚が、もう一段階前に進もうとしていた。


【昨日のランニング】7.12km

【前回大会からの総練習距離】71.30km

★6月の総ランニング 7.12㎞

★5月の総ランニング 58.2㎞

2025年5月30日金曜日

“走れなかった”が、走る理由になる日

さっき、走り終えて、今。

いつもと同じ場所で靴ひもを解きながら、僕はApple watchのボタンを押す。ランニング完了。NIKE RUN CLUBのアプリが、さっき走った距離を淡々と表示している。4.7km。月の累計は50㎞をようやく超えた。5月のチャレンジは、100kmには遠く及ばなかった。

でも、なぜか不思議と、走れなかった距離よりも、いま走れた距離のほうに目がいく。そういう日も、ある。

5月の初め、僕は走れなかった。

正確に言えば、走りたい気持ちはあった。でも体がついてこなかった。4月末に出場した人生初の10kmマラソンを、僕は不器用なまでに本気で走ってしまい、終わった瞬間から何かが抜けた。体も、心も、ぐにゃりと曲がったまま、数週間を過ごした。

中旬に差しかかったころ、ようやく呼吸が整うようになった。足も軽くなった。けれど、なかなか外に出られなかったのは、走るという行為が、思っていた以上に“前向きすぎた”からかもしれない。前に進む準備ができていない自分を、アプリの記録は無言で見つめ続けた。

NIKE RUN CLUBのアプリは、優しくも冷たい。

「今月のチャレンジ:100km」

走っても走らなくても、静かにそこにある。メダルのような達成バッジも、当然まだ空白のままだ。けれど、それすらも、今の僕にはちょうどよかった。達成しない自由というのも、きっとある。

今日、僕はようやく50kmを超えた。

ほんのすこしだけ、胸の奥で何かが鳴ったような気がした。満ち足りたわけじゃない。でも、帳尻が合ったような、そんな音だった。

6月になれば、また新しい100kmが始まる。達成できるかはわからない。でも、5月のこの50kmは、僕が僕を裏切らなかった証として、アプリの履歴にちゃんと残っている。それでいい。いや、いまは、それがすべてだ。

明日もまた、走れるとは限らない。でも、走れなくても、このアプリは待っていてくれる。ときどき、誰かよりも、テクノロジーの方が信じられる瞬間がある。そういうときのために、走っているのかもしれない。

明日、僕が走らなくても、アプリはなにひとつ変わらずそこにいる。誰かに励まされるよりも、何も言わない数字に救われることがある。それは、信じるというよりも、預けている感覚に近い。

 【今日のランニング】4.70km

【前回大会からの総練習距離】64.18km

試行錯誤

ぼくは今、174センチで70キロある。BMIで言えば23.1。まあ、数字としてはそれほど悪くない。けれど、悪くないということと、ちょうどいいということの間には、いつだって見えない谷間がある。 減らしてみようと思った。筋肉はそのままで、脂肪だけをうまく手放して。目安は65キロ。BM...