2周目のコースに入ったとき、身体の奥に眠っていた何かが、少しずつ目を覚ますような感覚があった。呼吸は荒い。心拍数も上がっている。けれど、それを押しとどめようとする理性よりも、「ここからだ」という気持ちが強かった。
前方に、さっきまで一緒に流れていた集団の背中が見える。距離はある。でも、まったく追いつけないほどではない。少しずつ、少しずつ、呼吸のリズムを刻み直して、脚を運ぶ。ペースを上げるというのは、たんにスピードを出すことではなく、脚の動きを信じることに近かった。
折り返し地点をすぎると、案の定、向かい風が待っていた。頬にあたる風は、鈍い抵抗のかたまりのように立ちはだかる。脚の重さが一気に増す。ここで失速するのは簡単だった。けれど、僕はほんの少しだけ身体を前に傾け、腕を強めに振った。風を切るのではなく、風に体を溶け込ませるようにして進む。
残り2km。
ここからが本当の勝負だった。呼吸は苦しい。脚の裏側に、いつ攣ってもおかしくない緊張感が走る。それでも、沿道からの拍手や声援が、何度も背中を押してくれた。見知らぬ誰かの「がんばれ」という声が、驚くほど力になる。自分が走っているのは、自分のためだけじゃない。そう思える瞬間が、マラソンにはある。
2週目は、抜かされるよりも抜かしてみせることができた。
ゴールが見えたとき、胸の奥に残っていた最後の力を振り絞った。もう限界だ、と思いながらも、脚は止まらなかった。フィニッシュラインを越えた瞬間、時計を見るよりも先に、息を大きく吐き出した。
ゴールラインを越えた瞬間、Apple Watchの数字は「59分台」。練習でも一度も切れなかった60分を、ぎりぎりとはいえ越えることができた。わずかな差であっても、それは努力ではなく執念が連れてきた一歩だった。
その余韻のまま直行した水飲み場で、しばらく立ち尽くした。冷たい水が喉を滑り落ちていく感覚だけが現実で、それ以外は霞んでいた。その間に、ゴールで応援してくれていた家族の姿を見失ってしまった。歓声と人波のなかで、すぐ近くにいたはずの存在が、ふっと遠のいていった。少し寂しかったが、それもまたマラソンという場の不思議な余韻なのかもしれない。
ようやく家族と合流し、みんなで近くの銭湯へ向かった。露天風呂に肩まで沈め、空を仰ぐ。達成感と疲労が、湯気のなかにほどけていった。僕がゆっくりつかりたかったので、息子が露天風呂でそろそろでる?って聞いてきた時にあとちょっとだけ入ってていい?って言ってちょっと長風呂したんだ。
けど、夕食の席で、息子は箸をほとんど進めなかった。帰宅後に高熱が出ていることがわかり、ようやく僕は気づいたんだ。あの日、炎天下で体調が悪いにもかかわらず、息子はずっと応援してくれていたのだ。
そのことを思うと、胸がぎゅっと締めつけられる。きっと一生、忘れられないだろう。
最高に忘れがたい「最初のマラソン」だった。